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イナリワン、やすらかに

  • 2016年02月13日(土) 12時00分


 1989年にGIを3勝して年度代表馬となったイナリワンが、今月7日、繋養先の北海道占冠村のあるぷすペンションで老衰のため死亡した。32歳だった。関係者によると、眠るような旅立ちだったという。

北茨城で繋養されていたときのイナリワン。2011年5月撮影。


 地方競馬の大井でデビューした同馬は、東京王冠賞、東京大賞典などを制したのち中央入りした。武豊騎手を背に89年の天皇賞・春、宝塚記念を勝ち、秋には柴田政人現調教師を鞍上に迎えて有馬記念に優勝。名勝負を繰りひろげたオグリキャップ、スーパークリークとともに「平成三強」と呼ばれ、80年代の終わりから90年代初頭にかけての競馬ブームを盛り上げた。

1984年5月7日、北海道門別町(現日高町)の山本実儀氏生産。父ミルジョージ、母テイトヤシマ(母の父ラークスパー)。


 馬体重は440キロ台から450キロ台と、けっして大きな馬ではなかったが、武騎手は「コンパクトなボディに大排気量のエンジンを搭載したクルマのようだ」と絶賛した。

 武騎手は、この馬で89年春のGIを2勝したことのご褒美のような形で、同年夏、保手浜忠弘オーナーがアメリカで所有する馬に乗るチャンスを与えられた。それが彼の海外初騎乗となった。「世界のユタカ・タケ」の第一歩は、イナリワンが切り拓いた道に踏み出されたのである。

 三強を形成して人々を熱狂させ、天才騎手の飛躍に大きな力を添えた――イナリワンは、競馬史において、非常に重要な役割を果たした。

 オグリキャップは2010年7月3日、スーパークリークは同年8月29日に死亡している。平成三強はみな天に召された。

 名馬の死は、私たちの胸のなかのさまざまなものを呼び起こす。天皇賞・春で2着を5馬身突き放した強烈な末脚、20歳だった天才騎手の華麗な手綱さばき、毎日王冠でのオグリキャップとの壮絶な叩き合い……などのシーンが、バブル期に燃え上がった競馬ブームのどこか危うい華やかさとともに、鮮やかな色彩をもって蘇ってくる。

 この馬や60年代初めのオンスロートのように、東京大賞典と有馬記念の両方を制する馬が、今後また現れるだろうか。それにはまず、今なら、ローマンレジェンドかホッコータルマエかサウンドトゥルーが有馬記念に出るか、ゴールドアクターが東京大賞典に参戦するかしなければならないわけだが、現実味に乏しい。さらにあり得ないタラレバをつづけると、クロフネやアグネスデジタルなど、芝とダートの両方でGIを勝った馬がチャレンジしていたとしても、東京大賞典と有馬記念のダブル制覇は難しかっただろう。

 名馬というのは、不思議というか、奇妙とも思える足跡を記すことがある。

 イナリワンは、89年、天皇賞・秋で6着となり、ジャパンカップでは11着に惨敗し、次走の有馬記念を勝った。翌年のオグリキャップも、天皇賞・秋6着、ジャパンカップ11着、有馬記念1着と、同じ着順だった。

 先述したように、イナリワンは32歳で死亡したわけだが、父のミルジョージも同じ32歳で世を去っている。また、平成三強の次代を担ったメジロマックイーンは、自身の誕生日に死亡している。

 いつも思うのだが、名馬は、自分が天国に旅立つタイミングまでもはかり、それを、私たちファンが大切な何かを思い出すきっかけにしているかのようだ。もの言わぬぶん、名騎手や伯楽といったホースマンが亡くなったときとは違う心の揺さぶり方をする。

 イナリワンは、自身の力強い走りや、走った時代の空気などを私に思い出させた。それには、何らかの意味なり、効用なり、場合によっては警鐘のようなものも含まれているのだろうか。

 くたびれかけている私に、90年前後、20代半ばだったころに味わった興奮や喜び、胸に抱いていたものの熱さなどを思い出して元気を出せ――と言っているのだろうか。

 そうかもしれない、という気がだんだんしてきた。

 あのころの自分を思い出すというより、イナリワンを見ていたときの気持ちをなぞってみると、どこで、誰と見ていたかといった記憶に、馬券の当たり外れの思い出などが絡んできて、甘酸っぱさが胸にひろがる。

 恐ろしいほど強い馬だった。イナリワン、やすらかに。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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